こんにちは。SOLの余語です。
10月10日の記事では、相互扶助的なコミュニティーを形成するために必要不可欠な周りの人とのコミュニケーションに消極的な姿勢を取っているように見える人たちが自己評価(self-esteem)が低いために他人との関わり合いを持つことに及び腰になっているようだと述べました。僕らが彼ら/彼女らの様子などに強い関心を示すとそれに積極的に応じることや、彼ら/彼女らが自分たちを「つまらない人間」と捉えていることなどがそのように考える理由です。
現代の日本社会を生きる若者の間で自己評価が低く新しい挑戦をすることに臆病になっている人が多いことはOECDなどが行っている調査でも明らかになっており、その背景には、運動能力が高いというように先天的かつ市場経済で価値があるとされるものを持ち合わせていない限り、最終的に大学入試でよい成果を上げられるような学力があるかどうかという指標に絞り込む形で人々が評価されるようになったことがあると思われます。これは、経済が発展し知的な労働に従事している人の方が年収などの点で安定した生活を送れる可能性が高くなったことを反映しているのでしょうが、自分の子供について話をする時に「優しい」とか「頼りがいがある」といった人格的な側面にではなく、学力の高低に主な焦点を当てる大人が多いことを、僕らのように大学受験に向けた準備のサポートをしているのでなくても、実感している人は少なくないはずです。
先日、哲学者の内田樹氏のブログを読んでいたところ、農業が日本社会の基幹産業の一つであった(もしくはそのようなイメージを持たれていた)時代には、学校教育において「子どもを育てる」ことが「農作物を育てる」ことに重ねる形で理解されていたという記事がありました。その記事によれば、子どもの教育に関して、彼ら/彼女らが成長するのに必要なものを与えたり、それを促すための取り組みをしたりといったことが大人の役割であったものの、それが功を奏すかどうかは分からないという無力感があり、「『何か』が生まれれば、それを喜ぶ」という緩やかな雰囲気が以前はあったそうです。
しかし、その後、製造業がこの社会を支えるものと認識されるようになり、多くの人がそこで働くようになった結果、子どもは一種の「工業製品」、教育のプロセスは工場でそれを作り出すための「工程」として捉えられるようになり、「素材」や「製造手法」、「納期」といったことだけでなく、「製品」としての「効用」も明示することが求められるようになりました。もしこのような説明がここまでの社会の変化の様子を正しく捉えているものであれば、大学の一般入試などで評価の対象となっているものという意味での学力は分かりやすい形で示すことが比較的容易なものであり、それに偏る形で子供の評価をすることにつながっていると考えることができると思います。
ここで問題なのが、全ての人が学校教育の中で十分な成果を上げられるだけの能力を持っている訳ではないということに加えて、日本の大学の一般入試で求められるような「正しい答え(を導き出す方法)を記憶できる力」ではなく、例えば与えられた条件の中で物事を考え抜くことができるという人が評価されにくいことです。また、上で述べたような尺度で高く評価される人は一部に限定されており、その他の人は周りの人や社会から「順調に成長した人」とみなされることが少なくなってしまいます。その結果、自己評価が低い若者が多く生み出されることになるのです。
さて、このところ、様々なメディアにおいて、日本が新型コロナウィルスの感染拡大について「第8波」に入ったという報道を目にするようになりました。今年中にSOLの生徒が受験する帰国生入試やAO入試は残り4つになりましたが、彼ら/彼女らの受験準備に支障が出ないよう感染対策を行っていきたいと考えています。
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現在の教室の状況について(2022年11月7日)―SOL帰国生大学受験セミナーについてvol. 215―
(2022年11月7日 18:15)