こんにちは。SOLの余語です。
前回までの4つの記事では、昨年度の帰国生大学受験セミナーの生徒で、オーストラリアやフィジーの高校を卒業した次年度に帰国生入試を受験した2人の生徒の受験準備について取り上げてきました。そこでは、彼らが留学していた国の高校や日常生活に関する状況や、帰国生入試・AO入試に向けた準備の中で重要なことについて述べていますので、これらのトピックについて関心のある方には参考にしていただけると幸いです。
さて、上の2人は学習に対する意欲を比較的高い水準で維持して受験に向かっていくことができたと思います。これまでの生徒を見る限り、このような状況を支えるものの中には、明確な目標を設定することと、知的な好奇心を持つことがあるようです。このうち、前者については「帰国生大学受験セミナーについてvol. 86」で言及していますので、後者に限定して話を進めると、例えば、オーストラリアに留学していた生徒はSOLの教室に初めて来た時、学習することに前向きであったとは言えませんでした。しかし、英語を学習する中で海外に滞在していた間に他の人とのコミュニケーションや学校の授業において不思議に思っていたことが解消していくにつれて知的な好奇心が高まり、あまり得意とは感じていなかった英語について積極的に学ぶ姿勢を見せるようになりました(フィジーに行っていた生徒も同じような流れで学習意欲を持つようになりましたが、それについては前回の記事を参照していただけたらと思います)。
昨今、日本の学生の英語学習に対する意欲が低下していると指摘される中、その対策として英語を使わないと満たすことのできない関心を学習者から引き出すべきという主張をする文献が見られます(鳥飼玖美子の『本物の英語力』がその一つです)。これに限らず、学習意欲と知的な好奇心のつながりは以前からよく指摘されるところですが、知的な好奇心や探求心といったものは人間であれば誰にでもあるものだと僕は考えています。例えば、養老孟司氏はその著作の中で、人間は一般的に「これをすれば(もしくは、起これば)あれが起きる」といったような規則的なことを好むものであり、そのために規則的に動き、天候のようないつ何が起こるか分からないものに(一見)影響を受けにくいシステムで成り立つ都市のようなものを作り出す傾向があるということを繰り返し述べています。ゴキブリのように、人間にとって有害とは言えないのに先が読みづらい動きをするものを毛嫌いする人が多いのを見ると、この主張には説得力があると思えます。となれば、目の前で予想外の事態が起きた時にも、それは自分にとっては予想外であっても当事者にとっては何らかの規則性があると考えるべきでしょうし、そう考えれば、その規則性がどのようなものかを知りたくなるでしょう。そして、それを知ろうとする試みにおいて、他の人がどのような視点から世界を捉えているのか知りたいという欲求が生まれてきても不思議はありません。
また、他の動物と同様に、人間は自分の生存可能性を高めることを優先的な事項の一つと捉えています。場面によっては、動物よりも強く生存を確保することを願うので、医療が発達したり、家族や社会といった構成員がお互いをサポートするシステムを作り出したりするとも考えられると思います。その目標を達成するためには、自分の身に起こりそうな危険をできるだけ正確に予見する能力が必要になりますが、それを可能にするものの一つができるだけ現実に即した、安定感のある世界観です。それを構築する過程で、自分にとって未知の事物をできるだけ多く見たり体験したりしたい、もしくは他人が経験したことをシェアしたいと願うようになるはずですが(そうしないと、すぐ覆されてしまうような不安定な世界観しか築けないので)、それがすなわち知的な好奇心を持つということなのだと思います。
このように、人間の持つ2つの傾向だけを考えても、僕らは本来、学習意欲を支える知的な好奇心や探求心を持っていると思われます。しかしその一方で、教育の現場の状況を見てみると、それが十分に引き出されるか否かというのはまた別の問題のようです。次回の記事ではそれについて考えてみたいと思います。
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2015年度帰国生大学受験セミナーの現場から見えたことvol. 5―帰国生大学入試についてvol.233―
(2016年5月19日 15:45)