こんにちは。SOLの余語です。
前回は、小論文試験に向けた学習において、受験生が自分なりに試行錯誤をする機会ができるだけ多く確保されていること、そして授業などを指導する教師にそれに対応するだけの時間的、精神的余裕が与えられていることが重要であるということを述べました。
このように考える理由としては、小論文を書くという行為において重要なものが言語情報では十分に伝わるものではなく、与えられたトピックに関して自ら考察してみたり、実際に文章を書いてみたりする経験、もしくは他者の評価を受けて文章の内容を練り直す経験を蓄積することによってのみ習得できるものであるということがありますが、「人数の多い環境」は上で述べた条件を満たすものと言えるでしょうか。今回は、この点について検討してみたいと思います。
まず、日本の教育の現場において、そこに参加する人の数が多い場合に採られる授業形式としてよく目にするのが、教師が一方的に講義をし、受講者はそれを聞くことに終始するというものです。日本で小学校や中学校に通った経験のある帰国生の中には、このような授業の形を「質問の機会が与えられていない」とか「自発的に何かを表現することを妨げられるので退屈だ」といった理由で嫌う人が多いのですが、受講者の数が多いのに対して教師が一人しかいない状況では、授業時間中の受講生による発言の機会を制限しなければ、その場をうまくまとめきれないということは理解できます。また、入試で出題される知識が効率よく、「上意下達」のような形で伝達されるという点では、小論文試験のない一般入試対策をそこで行うことはそれほど大きな問題はないと考えることも可能です。
しかし、他の人から高い評価を受ける小論文を書けるようになることが学習目標であるならば、話が異なってきます。もちろん、大人数ではないにせよ、複数の受講者がいる空間では、その場で話されている話題との関連性が全くない話をするべきではないといったマナーは一定程度尊重されるべきですが、多くの人は自分の考えや疑問を発言する機会が制限されると、物事を能動的に考察しようとする姿勢を同時に放棄してしまいますし(これは、上で述べたような形の授業で学ぶことの多い日本の学生の問題点として度々指摘されることです)、授業で主要なトピックとなっているものに合った話とはどのようなものかということを考えることも、与えられた問題文を読んで、その中心的な主張に対する自分の考えを述べる形式の問題対策にもつながります。
また、小論文における自分の主張の深め方などを習得するタイミングは個人によって異なり、社会的な問題や学問的論件に関する考察を深める経験を蓄積するに従って、客観的に予測可能なペースでそれができるようになる人もいれば、ある時に教師や他の生徒と意見交換を行う中でそれまでの経験を突然活かせるようになる人もいます(ここまで劇的な体験でなくても、1回のコミュニケーションをきっかけに学習に弾みが付いたり、よい小論文を書くためには何が必要かということに関するヒントをつかんだりすることはよくあることです)。後者のタイプに当てはまる人の「気付き」の瞬間を逃さないためには、たとえ授業中であったとしても、生徒が自分なりに考えたり、それを表現しようとしたりするのを奨励することが求められるでしょう。
このようなことを考えると、マナーに違反しない限りは授業の参加者が発言をしやすいような環境を整えるべきですし、それを認めてしまっては大きな混乱を招くという状況をできるだけ避けなければなりません。この点において、「人数の多い環境」は小論文試験を含む形態の入試を受験する人が受験準備をする場として適切なものとは言えないということになると思います。
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帰国生入試の受験準備を行うのに最適な環境とは?vol.13 ―帰国生大学入試についてvol.82―
(2012年5月7日 16:20)