こんにちは。SOLの余語です。
前回は、参加している人の数が多い教育環境において広く見られる、授業時間が教師の一方向的な講義のみで構成されるという授業形式を取り上げ、これには小論文試験に向けた準備をしている受験生の能力の伸長を阻害する可能性があるということを述べました。教師と生徒の間、もしくは生徒同士のコミュニケーションがよい小論文を書くための学習では重要なものであることがこのように考える背景にありますが、そこで説明し忘れてしまった点がありますので、今回の記事で補足をしたいと思います。
以前に、「競争的な環境」は帰国生入試やAO入試を受験する人にとって適切な環境なのかということを検討した記事で、入試の採点者である大学の教員(もしくは、このような職に就こうとしている人)は与えられたトピックについて受験生が自分なりに考察したことが感じられない答案を嫌うという話をしました。このようなことを考えると、受験準備のための授業で配布される模範答案などを模倣することはできるだけ避けるのが望ましいということになるはずです。しかし、前回の記事で述べたような形で行われる授業を受けた人は、そこで与えられたものを「マニュアル」として扱い、その内容や構成を再現することに注力する傾向があります。
以前の(今もかもしれませんが)日本の教育機関では、4、50人の生徒で構成されるクラスで、教師が一方的に話したり、黒板に板書したりしたものを生徒がひたすらノートに写し取り、その内容をどれだけ記憶できているかということが学力の評価基準となるという形で授業が実施されていました。それが生徒の自分なりに物事を考える力を養うことにつながらなかったことの反省から、「ゆとり教育」と呼ばれるカリキュラムの導入(これは現在の日本社会では非常に評判の悪いものですが、実行に移す能力のある教員がいなかったり、適切なサポートが欠如したりしていただけで、その目的自体は評価すべきものだと僕は考えています)やPISA型学力を習得するための様々なプログラムが提案されたことにつながったのは記憶に新しいところです。
また、僕も50人程度のクラスメイトと中学・高校生活を過ごしましたが、このような規模で授業が行われると、教師の側から発言を制限されなくても、自分なりの考えを表現しようという気が起きなくなりますし(多くの人の前で話すのは得意ではないという大人は、僕を含めて沢山いますが、中学生や高校生ぐらいの年頃の人にはその傾向がより強く見られると思います)、教師が言ったり書いたりした事柄を周りにいる大勢の人が黙々と書き写しているのを見ていると、それが疑う余地の全くないものである(もしくは、そこで提示された視点以外に物事を正当に評価できるものはない)という印象を抱いたこともあります。これが、授業で教えられる内容を生徒が「マニュアル」的に捉えてしまう背景にあるものの一つだと思います。
このように、「人数の多い環境」でよく見られる、教師から生徒への一方向的なコミュケーションで成り立つ授業というのは、帰国生入試などの受験生にとって、小論文試験に対応する能力の習得につながらない点において、また適切な学習姿勢を身に付けられない点において、適切なものとは言えないようです。なお、上のような形で授業が行われないとしても、「人数の多い環境」には問題点があります。次回は、それについての記事とする予定です。
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帰国生入試の受験準備を行うのに最適な環境とは?vol.14 ―帰国生大学入試についてvol.83―
(2012年5月11日 12:45)