こんにちは。SOLの余語です。
前回の記事では、評価の高い小論文を書くためには、文章の内容や構成、表現を考える際に、それが多くの読み手に受け入れられるものであるかどうかという点に意識を置くことが必要だと述べました。受験生の中には、小論文を書き始めた時期からこの条件を満たすことができる人がいますが、どのようなものを選択するのが適当なのかということに迷いを感じるというケースも多く見られるものです(その結果、与えられた模範答案などに書いてある内容を再現するという方向性に進むことにつながる場合もあるでしょう)。
大学入試を受験する人の大半が18、19歳であり、限定的な生活体験しか有していないことを考えると、そのような問題に直面するというのは自然なことのようにも思えます。この点、僕が大学院に所属していた時期に、ある高名な法学の先生から「学問研究とはどのようなものか」というテーマで話を聞く機会がありました。そこで今でも印象に残っているのは、その先生が「学者が一人前になるには、70歳ぐらいまで研究活動を続けることが必要だ」と言っていたことです。
このような考えには、大学の教授になっている学者は定年になるまで、大学の運営に関わる様々な雑務に追われて研究に専念することが難しいということが理由の一つとして挙げられていました。しかし、その話の中では同時に、自分の見解を「そのような考えを主張する人がいてもおかしくはない」ものと社会的に認めてもらえる形に練り上げていったり、読み手が受け入れることができる文章を書く能力を習得したりするのには、同じ学問の世界において異なる見解を採る学者や日常の生活の中で出会う様々な立場の人々と交流するという体験を蓄積する必要性があることが強調されたように記憶しています。これは、抽象的な思考の世界に生きる人であっても、自分の考えをよりよく伝えるためには、具体的な経験を積み重ねることを通じて、この世界に存在する多様な読み手についてのイメージを形作らなければならないということを意味しているとのだと理解できるものです。
僕が話を聞いた先生の考え(また、それについての理解)が正しいのだとしたら、帰国生入試の受験準備を行う中で、受験生が書いた小論文を様々な人に読んでもらい、その内容について意見交換などをする機会を持つことが重要ということになりますが、実際の読み手になるのは小論文の授業を担当する教師(もしくは、添削を担当するアシスタント)や同じ授業を受けている人であることが一般的だと思います。このうち、授業を担当する教師は社会問題や学問的な論題とされる事項について多様な考え方を理解し、それを生徒に示すことができるよう訓練されているはずですが、人間は誰しも完全に中立公正な立場に立てず、また全知全能の存在ではないことを考えると、彼/彼女の授業の中などで生徒が出会う物事の考え方に一定の限界があるのは不思議なことではありません。
その限界を克服するためには、同じクラスで授業を受けている他の生徒と、多様な考えや生活体験を有する人々と関係を構築することを目標にしながら、小論文の課題で取り扱われたトピックなどに関してコミュニケーションを取れる環境があることが望ましいでしょう。しかし、「競争的な環境」における人間関係は希薄になるか、関心や興味、思考、アイデンティティなどについて共通点がある人たちの間で強まるばかりであり、受験生が様々な立場の人々と意思疎通をすることを促される可能性が低いことは「帰国生大学入試について」vol. 75で述べた通りです。この点でも、それは帰国生入試の受験準備を行うのに最適なものとは言えないということになると思います。
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帰国生入試の受験準備を行うのに最適な環境とは?vol.8 ―帰国生大学入試についてvol.77―
(2012年4月11日 17:35)