帰国生入試の受験準備を行うのに最適な環境とは?vol.5 ―帰国生大学入試についてvol.74―

(2012年3月30日 15:00)

こんにちは。SOLの余語です。
前回は、小論文を書く際に他の人の答案などを模倣するという姿勢を受験時まで維持するのは望ましくないということを述べました。実際の入試で出題されるトピックを全て受験に向けた準備の中でカヴァーすることは難しいということがこのように考える理由の一つですが、今回は理由をもう一つ挙げておきたいと思います。


以前の記事でもお話ししたかもしれませんが、僕は都内の大学の大学院に在籍した経験があり、大学の教員と日常的に接する中で、彼らがどのような考えを持っている人々なのかという点について一定の理解を得る機会を持つことができました。その中でも、最近の「帰国生大学入試について」の記事で述べている内容と最も関連性がありそうなのは、入試や資格取得試験の論文試験で受験生が出題された論件について個人的に考察したことが感じられない答案(これが具体的に意味するものは、テキストの記述をそのまま書き写したものであったり、ある一定の型にはまったものであったりします)が提出されてきた場合、それを高く評価しない人が多かったということです。


例えば、法学者が多く問題作成や採点などに関与する司法試験は近年、大きな制度変更がありましたが、僕が学生時代に実施されていた旧司法試験では論文を書くことが求められていました(新司法試験の詳細はよく分かりませんが、今も論文試験はあるようです)。その受験対策を行う塾では、何をどのような切り口で論じるのかということに関するマニュアルを論点ごとに配布するのが一般的で、受験生の中にはマニュアルに書かれていたことを論文答案の中でいかに再現できるかということを学習の中心に据える人がいたようです。しかし、大学の教員の中にはそれに強い嫌悪感を示す人が多くいましたし、論文試験の合格者が受験することのできる面接試験において、自分なりに考えて様々な問題に結論を出しているのかということをしつこく確認する人がいるという話を耳にしたことがあります(実際に、僕の友人でマニュアルに書かれたことだけで勝負するという方向性で合格した人はそれほど多くなかったと思います)。


このような大学教員が学生や受験生に期待することの一般的な傾向は、レポートを作成する際にWikipediaなどに書かれている文章をコピー&ペーストすることを彼らが問題視していることや、帰国生入試の面接試験において受験生が書いた小論文の内容が受験生自身によって考察されたものであるのかを確認されることがあるということにも表れ出ていますが、彼ら(もしくは、大学教員になることを目指している大学院在籍者)が入試の採点を行っている以上、他の人の答案やテキストの内容や構成を模倣した小論文答案は高く評価されないことは想像に難くありません。類似した答案を複数目にすることは、上で述べたようなマニュアルが存在しているのではないかという印象を与えてしまうでしょうし(実際に、そのようなことを明言した教員がいたことを記憶しています)、少なくとも自分なりのアプローチで小論文を書こうとする姿勢がない受験生がいると評価するよう促してしまう可能性があるからです。このようなことを考えても、受験準備の中で模倣的な学習姿勢を放棄しないことは望ましいとは言えないと思います。


※昨年の2月末から3月初旬にかけて「マニュアル型の小論文指導について」というタイトルの記事を連載しましたが、その後の震災の影響などでブログの更新作業自体がストップしてしまったため、完結まで持っていくことができず、継続的にこのブログをお読みいただいている方にはご迷惑をおかけしました。そこで述べたかったことは、ここ最近の4回の記事で述べた「他の人の答案などを模倣することに終始する形での受験準備」が望ましくないということと重なるものですので、そちらを参照していただければ幸いです。


次回の記事では、帰国生が受験準備を行う場として「競争的な環境」は最適なものなのかという問題に関して、別の視点から検討を加える予定です。それでは、今回の内容に関して、ご質問などがありましたら、以下のフォームよりご連絡ください。


【お問い合わせフォーム】
https://www.schoolofliteracy.com/contact/



トップへ戻る