小論文試験対策として海外でやっておくべきことvol.2 ―帰国生大学入試についてvol.6―

(2010年12月14日 16:45)


こんにちは。SOLの余語です。
前回は、帰国生の受験学年前の小論文対策として、日本の塾や通信教育で直接的な対策を行うのもよいが、様々な生活経験を蓄積しておくことも重要であり、その2つのバランスを考えなくてはならないということを述べましたが、今回は前回のものとは違う観点から、生活経験の重要性について説明したいと思います。

先日、まだ入院をしている時に、今まで読めていなかった本をなるべく多く読んでしまおうと、本を何冊か、母親やSOLの生徒に病室に持ってきてもらったのですが、その中に養老孟司氏の書いた「バカの壁」がありました。養老氏は、「教育の怪しさ」という章で、教育のあり方について、以下のように述べています。

 学生、ひいては教育という行為そのものに絶望的になることは多々あります。それは東大だろうが何だろうが変わりません。つくづく思うのは、第三章でも述べましたが、若い人をまともに教育するのなら、まず人のことをわかるようにしなさいと、当たり前のことから教えていくべきだということです。
 別に道徳教育を強化しろということではなく、それが学問の本質に関わるからです。普通に人間がやっていることぐらい一応全部やってこないと、わかるようにはならないことが、山ほどあります。
 「結婚したらどうなるんですか」ということに疑問が湧くのも無理はない。けれども、そんなこと説明しても意味がない。一度してみなさいよという話でしかない。それをしないで耳で聞いても駄目なのは言うまでもありません。


ここで養老氏が言いたいことは、人間がある状況の中で考えることや感じることは、言語化の過程を経る際、そのままの姿やその個人にとっての意味をそのままの形で「保存」することは難しいということだと思います。そして、実体験は小説など文学作品を読む時に必要なものだと一般的には考えられていますが、学問を学んでいく際にも大きな意味があるため、生徒や学生に様々な経験を積ませる必要があるということでしょう。僕も、この養老氏の主張に賛成です。

これは、例えば、異文化理解などの本を読むと頻繁に出て来る、「カルチャーショック」という言葉について考えてみるとわかると思います。「カルチャーショック」という言葉を辞書で引くと、「異文化に接したときに、慣習や考え方などの違いから受ける精神的な衝撃」という意味が出てきますが、その「衝撃」がどれほどのもので、人間の行動にどのような影響を与えるのかということは、自分で(もしくは、自分の身近な人が)それを体験してみないと、本当の意味で「理解する」ことはできないはずです。そして、仮に「カルチャーショックを実際に体験しないと、異文化は理解できない」という主旨の文章を読んだとしても、「カルチャーショック」の与える衝撃に対する真の理解がない状態では、「外国人にふれあっていれば異文化を理解できるはずなのに、なぜこの筆者はカルチャーショックなんてものを重視するのだろう」というように考えてしまい、筆者の主張を完全に理解しようとしないはずです。

また、別の例として、経済学や経営学で、「日本的経営」の良さについて説明する時に、人間は金銭や社会的地位といった利益を得ることで満足するが、日本の地位では高い社会的地位を得ることによる満足に焦点を当て、賃金の格差の拡大を抑制したことが挙げられます。この場合、金銭や社会的地位を得た時の満足感がどのようなものかということについての体験がないと、このような説明を読んでも、「日本的経営」を採用してきた企業で働いていた人々の考えを本当に理解することにはつながらないでしょう(何かをした時に金銭や社会的地位を得ることは、社会人でなくても、お小遣いを得たり、学校中の賞賛を得たりした体験を元に、どのような感情を抱くことになるかを体験することができるはずです)。

これまでのブログの記事やメールマガジンでも述べてきましたが、帰国生入試やAO入試の小論文試験では学問的な文章を読んだ上で、それに対する自分の意見を述べるという形が一般的になっています。抽象的な文章を読んだり、抽象的な概念を理解したりするのに、自分で様々なことを体験することが重要であるなら、生活体験を蓄積することも小論文試験対策の重要な一部であるはずです。このようなことに意識を置いて、バランスのいい生活を送るようにしてください。

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